2011年01月31日

『バイロスと日本におけるその系譜〜蔵書票展〜』V

トークイベント終了後、私は何人かの方とお話をする事が出来ました。
日本書票協会会長であり、『西洋の蔵書票バイロスとアールヌーヴォー』
等の蔵書票の著作も数多くある、蔵書票コレクターの内田市五郎さんから
蔵書票の話をお聞きする事が出来ました。
-日本書票協会-
http://pws.prserv.net/jpinet.Exlibris/jpinet.exlibys/association.htm
(記事投稿時には閲覧可能)
レイミア プレス代表・日本書票協会会員・東京製本倶楽部会員の
江副章之介さんからも、色んなお話をお聞きする事が出来ました。
会う前はどんな人だろうと思っていましたが、
実際お会いしてみると、温厚でとてもダンディな紳士でした。
江副章之介さん自身にも直接言った事ですが、
「名前もカッコイイいいが、やる事もまたカッコイイ」と思います。
江副さんはルリユールに興味があり、また自ら理想の書籍を追求しています。
過去にはアルフォンス・イノウエ詩画集「夢の半周」、
http://www.yart-gallery.co.jp/alphonseinouebook.html
(記事投稿時には閲覧可能)
林由紀子銅版蔵書票集『プシュケの震える翅』を去年刊行し、
自己の夢の実現を成就せんが為の努力をしています。
江副さんとお話をしていた時、林由紀子さんが来たので、挨拶をしました。
その江副章之介さんの紹介で、日本書票協会理事の青木康彦さんからも
お話を聞くことが出来ました。
青木さんは過去に、東京・高輪の啓祐堂ギャラリーで、
「青木康彦コレクション 版画集・詩画集と魅惑の蔵書票展」を
開催しています。青木さんも蔵書票コレクターであり、
またフランスの挿絵本のコレクターでもあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/azusa12111/43495810.html
(記事投稿時には閲覧可能)
熱気に包まれた会場を後にし、ビルの中から外に出ると、
トークイベントで、バイロスの蔵書票について語っていた、
伊藤文学さんがいました。
伊藤さんは、雑誌『薔薇族』の編集長として知られています。
またバイロスの蔵書票コレクターでもあります。
伊藤さんとしばし話をする事が出来ました。
伊藤さんは温和な紳士でした。伊藤さんはご自分のブログを持っています。
http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/
http://www.barazoku.co.jp/
(記事投稿時には閲覧可能)
多忙なところ、お話する機会を与えて下さった、皆様には大変感謝致します。
この場を借りて、お礼を申し上げます。
どうも有難う御座いました。
おかげさまで、とても楽しい時間が過ごせました。

*2011年2月6日追記
特別トークイベント1月29日(土)の中で、
「何故、蔵書票にはエロスが存在するのか」と
いう話が出ていました。
理由はそもそも蔵書は人に見せるものでもないし、
見せびらかすものでもなく、ただ自分だけのもので
自分だけの楽しみです。
言わば自分の女のようなものです。
勿論人に貸す男もいるだろうが、それは例外中の例外で、
普通は有り得ません。
蔵書票もそんな本に貼られるものなので、
人に見られては困るほどのエロスが全開の蔵書票が
多いのです。
(それにフランスの限定挿絵本についてですが、
好色本が多く、その本も人に見せるものでもなく、
ただ自分だけの楽しみの本です)
ですので、そのようなエロス満載の蔵書票が多いのです。
言わば、自明のこれらの理由に対し、
「何故、蔵書票にはエロスが存在するのか」という
疑問が出てくるのは、本来の蔵書票の性質を離れて、
(本に貼るという概念から離れ)蔵書票を交換すると
いった蔵書票の存在意義を逸脱した行為が
今では当たり前の様に発生している事によるものです。
本来蔵書も見せるものではなく、
また、それに貼られる蔵書票も人に見せるという前提で、
作られたのではありません。
ですので、人に見せるのも憚れるような、淫靡な蔵書票が
多いのです。
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『バイロスと日本におけるその系譜〜蔵書票展〜』U

トークイベント開催前のヴァニラ画廊のドアの前には
多くの人が行列をつくり、人気の高さを示しています。
最初は数人程度でしたが、時間が経つにつれて
列も長くなりはじめ、階段へそって下の階まで伸びています。
開場を待つ間に、行列の前後の方としばし雑談をしました。
私の前には蔵書票コレクターの方、
私の後ろには、伊藤文学さんのファンの方で、
伊藤文学さんに会いたくて、今回のトークイベントを聞きに来たそうです。
蔵書票という事から、紳士然とした、年配の男性の方ばかりかと
思っていましたが、若い男性女性の姿が目に付きました。
さて、開場です。
受付はヴァニラ画廊の綺麗なおねえさんが二人。
その綺麗なおねえさんに料金を払い、先着順で椅子に座ります。
トークイベントは前部中央のテーブルには、
版画家の林由紀子さん、
版画家であり、銅夢版画工房」主宰の蒲地清爾さん、
日本書票協会会長の内田市五郎さん、
版画家の多賀新さんが座り、
両脇の椅子には、伊藤文学さん、江副章之介さん等が座っています。
この様な配置で、内田市五郎さんの主導の元、
和やかにトークイベントが始まりました。
各人が自分と蔵書票との関係を、時には真摯に、
時にはユーモアも交えて語ります。
トークイベントの冒頭で、内田市五郎さんがこの様に言っています。
「一同に今回の作家が集まるのはまず無く、夢の様な話、珍しい機会」だと。
また、このようにも語りました。
「蔵書票というものの知名度のアップ、今後蔵書票コレクターを増やすには
ネットの活用が今の時代は欠かす事が出来ない」と。
特に印象に残ったのは、とても野生的で男らしい、
銅夢版画工房主宰の蒲地清爾さんのお話でした。
http://doumuhanga.jp/
(記事投稿時には閲覧可能)
蒲地清爾さんの人生は文字通り、波乱万丈です。
29歳で審査を受ける側から、審査をする側になる事が出来たと言い、
それは時の運もあるだろうと語りました。
蒲地清爾さんは約30年作品をつくり、次回は100作目になるという事です。
会場には、銅夢版画工房の版画家の小玉裕子さん、
それに版画家の杉本一文さんの姿も見られました。
杉本一文さんの蔵書票は繊細な描写、独特なエロスがあります。
彼の蔵書票で一番好きな作品は「Goddess of shine」です。
これは、杉本一文さんの蔵書票の最高傑作だと思います。
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『バイロスと日本におけるその系譜〜蔵書票展〜』T

bayrojpzousho.jpg
「バイロスと日本におけるその系譜〜蔵書票展〜」
参加作家:フランツ・フォン・バイロス/アルフォンス井上
/蒲地清爾/多賀新/林由紀子(敬称略)
銀座 ヴァニラ画廊 期間: 2010年1月24日(月)〜2月5日(土) 
入場料500円
特別トークイベント1月29日(土)
(日本書票協会会長・内田市五郎氏と参加作家をお迎えして)
入場料1,000円(1D付)17時開場
http://www.vanilla-gallery.com/
http://www.vanilla-gallery.com/schedule/2011/20110124.html
http://www.vanilla-gallery.com/vanilla-gahou/gahou/2011/01/post-32.html
(記事投稿時には閲覧可能)
昨年開催され、好評を博したバイロスの蔵書票展。
観る人を匂いたつような官能的幻想へと誘うその魅力と、
美しさ・優美な系譜は蔵書票という小さな輝きの中で、
日本の作家にも受け継がれております。
蔵書票とは実に不思議な文化です。
掌に乗るほどに小さな世界には、ぎっしりと濃密な絵画が
繊細な描線によって描き込まれています。
その芸術は、神への信仰のためでも戦士を鼓舞するためでもなく、
個人に所有される為に生み出されたものです。
自らの蔵書にそっとそれを貼付け、再び表紙を閉じて
本棚へと戻すその快感は極めてプライベートなものであり、
どこか秘め事のような趣きを感じさせるものでもあります。
今展示では日本の蔵書票作家の中でも珠玉の4名の作品と
バイロスの蔵書票の展示をあわせて行ないます。
蔵書票の魅力とバイロス〜現代作家へ繋がる
「表現の流れ」をお楽しみ頂ければと思います。
可憐にして上品な猥雑を見事に表現した、
蔵書票の芸術家バイロスと、そのバイロスの系譜を
確かに継ぐ4名の作家が小さな世界に描き出す、
“秘密の花園”。 どうぞじっくりお楽しみ下さいませ。
特別協力:日本書票協会・伊藤文学

1月29日、上記の特別トークイベントを聞きに行ってきました。
このトークイベントの一週間程前に、去年の2010年7月10日に、
東京・高輪台の啓祐堂ギャラリーで開催された、
林由紀子の蔵書票の個展でお会いした、
林由紀子さんから、今回の展示及びトークイベントの
案内を頂き、行ってみる事にしたのです。
(ほぼ同時期に同じく銀座の青木画廊で、IFAA/OBLIQUE
アイファ/オブリック展が開かれるので、良い機会だと思いました)
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2011年01月08日

ゾンビ映画なら、やはりフランスだよな 『ザ・ホード -死霊の大群-』

lahorde010.JPG
2009年のフランス制作。96分。原題(La Horde)
最初に気になったのは、タイトルのザだ、
まあLaがそれに値するので、気持ちは判らなくないが、
ここまで徹底的に英語脳というのは、如何なものか。
まあ、映画のタイトルほど、いい加減に、
付けられているものも他にないだろう。
まあ、それはさておき、今までゾンビ映画と言えば、
主流はアメリカであり、言わば独占状態であり、
ここで、あのフランスが参入してきた訳であるが、
フランス流に解釈され、ゾンビ映画として成立している。
クエンティン・タランティーノばりに、銃を使ったアクション、
スティーブン・セガールばりに、格闘するシーンが実に多い。
(ベトナムのディエンビエンフーで戦った、
元軍人の爺さんの活躍も見逃せない)
本映画の舞台はBanlieueであるし、根底には多民族国家、
移民大国としてのフランスの差別、抑圧の歴史、恥部が
見え隠れしている。
最後のシーンで、復讐を果たす訳であるが、
邦画や米映画だと、そこで寛容になり、許されるのが
常であり、何かしらの救いが見られるのだが、
フランス映画では、そうはいかなかったようだ。
これからもフランス映画に期待したいと思う。
今までの映画の通例を打破するのは、フランスしかない。

La Horde - Bande annonce
(記事投稿時なら視聴可能)
http://www.youtube.com/watch?v=OSEe5vojkgg

2011年01月02日

映画 『サバイバル・オブ・ザ・デッド』

SurvivaloftheDead010.JPG
2009年アメリカ制作。90分。
(原題:Survival of the Dead)
ジョージ・A・ロメロ監督で一寸は期待もしたのだが、
何だかこじんまりとまとまった感じを受ける。
大作映画と比べれば、低予算で、資金に限度がある為に、
やはり、こじんまりとした空間で織り成す人間模様と言うべきか。
同じロメロ監督の1985年制作の「死霊のえじき」でも
ゾンビを飼いならすという描写があり、
本映画でも、またもや飼いならすという試みが
なされるが、飼いならすならさないはさておき、
既に死んでいる人間なら、腐敗は継続している
はずなので、飼いならしても、時間が経ってしまえば
人体がじきに崩壊してしまういので、
どうにもならないのではないかと思った。
やはり、ゾンビ映画というのは、ゾンビがのろのろしていて、
いつでも逃げられるだろう・・・という前提が
あってこそ成立するものだと思う。
動きが遅いからこそ、油断するのであり、
ゾンビを甘くみるのであり、いつのまにか逃げられない、
囲まれたみたいな絶望的な状況が作り出されるのである。
しかし、疑問なのだが、世界が崩壊し、金よりも物、
金よりも銃や弾丸や食料等が重要とされる世界で、
何故に、本映画の主人公は金、金と連呼するんだろう。
既に世界の貨幣経済は崩壊しているのに。
タイトルの様には、ちっともサバイバルしていない、
やはり王道の狭い空間での必死の攻防戦が見たかった。

2011年01月01日

まず結果があってそれから原因がつくられる 映画『インセプション』

Inception01.JPG
2010年アメリカ制作。148分(原題: Inception)
本映画は人が睡眠時に見る夢を題材にした映画である。
夢とは何と壮大な架空の世界なのだろう。
本棚を見れば、その人が判ると言われるが、
どんな夢をその人が構築出来たのかを知れば、
その人物がどれだけの人物がおのずと明らかになるだろう。
我々が見る夢は、今まで生きてきた現実世界の緻密な
記憶によって、全てが構築されている。
経験しない事、見た事がないものは夢としては構築出来ず、
映像化は出来ない。
もし出来ても、それはとても稚拙で不安定なものになるはず。
女の局部をまだ見ぬ男は、夢の中で裸の女が出てきたとしても
その部分は曖昧になるか、また、それは男の物に置き換えられる。
銃を撃った事が無い者は、夢の中で、銃を構える事が出来たとしても
銃を発射出来ないか、また銃の威力は豆鉄砲以下になる、
勿論、銃の反動は殆ど感じないだろう。
車の運転にしてもしかり、運転をした事ない者は、
リアルな体感で持って、車を操縦する事も出来ず、
またエンジンの振動も夢の中では感じる事はない。
ただ、車の形は自然と変形する事が出来る、
もし、その夢を見る者が明晰夢だと判断し、
夢の中では、何でも出来るという信念を持った場合には。
夢というものを考え、明晰夢という概念を理解した場合、
夢の中で、これは夢なのだと自覚がしやすいだろう。
人により、夢というものは差異があり、白黒の夢を見る者、
私みたいに、現実世界と同様に、カラーであり、
痛み等の五感を認識出来る夢を見る者、それは様々である。
私にとって、夢は現実世界となんら変化は感じられない。
ただ、現実では、起こりえない奇妙な出来事が起きる、
架空の世界なのだ。

以前、こんな話を聞いた事がある。
例えば、睡眠中に起きたとしよう。
原因は、なんでもいい。とにかく刺激である。
飼い猫が身体に乗ったとかでもいい。
とにかく、刺激を受けて、起床したとしよう。
夢の中では、(打撃でも何でもいいが)
何らかの刺激を受け、そして目が覚める。
まず、原因があって、それで起きる訳である。
通常はこう考えるだろう。原因があって、結果だと。
しかし、夢はこの様に整合性が作られる。
最初、飼い猫が身体に乗り、
その刺激によって、目が覚める瞬間、1秒か、
或いは一秒に満たない、極めて短い時間に
夢の中で、原因となる、対象物がつくられる。
例えば、自分に殴りかかる人物が
夢の中では、創造され、それが殴ることにより、
目が覚めたと整合性が出来る訳だ。
寝ている時、突然に刺激を事前に予想が出来る訳が無く、
既に起きてしまった刺激、起床しつつある身体に対し、
極めて短い時間で、夢との整合性が作られる。
これを考えても判る様に、夢の中での
時間は現実世界と同様の時間ではなく、
現実では、5分で有ったとしても
夢の中では、何時間という時間が経過している。
夢とはとても不安定なもので、睡眠中の刺激によって、
夢の内容が簡単に変わってしまう。
また現実の刺激の整合性も有り、夢の中で、トイレに行く夢は、
現実でも尿意を催している事が多い。

本映画の着想はとても面白く、また構想も素晴らしい。
とても邦画には出来ない偉業だろう。
まず、邦画とは発想からして違う。
どうして邦画は、予想が簡単に出来てしまう程
チャチで稚拙なのだろう。
着想も構想も何もかもが小さい。
邦画制作者の見る夢は、どんなに味気ないのがか、
手に取るように判る。
自分の夢の制作者、構想者、監督は自分自身だ。
自分の見る夢とは自分の記憶の投影である。

本映画にマリオン・コティヤールが出演し、
夢を覚ます時の刺激のアイテムに
エディット・ピアフの曲が使われている。
posted by zola at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | SF映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする